魂を磨くとは(2022年9月4日講話)

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()(のち)(ほど) (とうと)きものは()にあらじ   ひたに(すが)りて(よわい)()ばさむ

 

暦の上ではすでに秋、朝晩の心地よい風に、ふと秋の訪れを感じさせる今日この頃です。

来たる19日は「敬老の日」、一足先に敬老の皆様にはお祝い申し上げます。

生きておれば色々なことがありますが、明主様にご縁を頂かれた皆様方は何かあったとしても最終的には感謝に振り向けられた日々であられたことかと思います。これからも元気で御活躍されることを願っています。

 

ところで「2025年問題」という言葉をご存じでしょうか。それは戦後間もない団塊世代(昭和22年~24年生まれ)が75歳以上となり、より高齢化が加速すると言われています。

長生きできることは良いことなのですが、その分、病気やケガをしやすくなると言われ、医療や介護の費用が膨らみ国の財政がより厳しくなることが問題視されているわけです。

それだけではなく、例えば此度のウクライナ危機も引き金となり、経済や医療、世界情勢など何が起こってもおかしくない状況にあります。

 

「安心」という言葉がありますが、もともとは「安心立命(あんしんりつめい・あんじんりゅうめい)」という仏語に由来したものです。その意は「心を安らかにして身を天命に任せ、いかなる時も動じない」ということですが、どう見たって今の世の中、安心して生きていけるような世の中ではありません。

そうしたことを含め、今月は「魂を磨くとは」というテーマでお話しします。

 

 

▼世の出来事から学ぶ

 

400万年前、人ともサルともつかない奇妙な生き物がアフリカに登場し、それから進化を続けつつ現在に至っていると言われるのが私たち人類です。進化の過程で様々な道具を発明した人類、近年に至り驚異的なスピードで技術革新を繰り返し、今や6000万キロ離れた火星へ人類を送り込むどころか、そこで暮らすという壮大な夢を実現させようとしています。

一方、進歩発達した技術力は「人間同士が殺しあう戦争」「地球環境や気候まで狂わせる」というように破滅にも向かわせるという矛盾した生き物、それもまた人間なのです。それは技術の進歩に肝心要の倫理観が追い付ていない(魂が成長していない)からでしょう。

 

 今年2月のロシアによるウクライナ侵攻を見るにつけ、世界は今も暴力や権力などによる「恐怖で支配する」という専制(封建的)国家が如何に多いかということを見せつけられます。事ここに至るまでには歴史的なものや地政学的なものなど様々要因が絡み合っているのですが、大きな原因として指導者の「全部、相手が悪い。ウクライナ(NATO)が攻めてくるのでは」という身勝手な理屈と強い猜疑心にあるように思えてなりません。なお「人を疑う、物事を疑う」という猜疑心も必要だから存在するのですが、ただ、これが昂ずると何でもないことまで疑い、ついには「やられる前にやっつけろ。それが味方であろうとも。」となるのが独裁者の常とう手段というものでしょう。

 

ウクライナ情勢だけに限らずアジア情勢を含め、キナ臭い現実は核戦争や世界大戦の可能性もはらんでおり他人事では済まされません。実は明主様が生きられた時代もそうであったのであり、原爆や水爆など核にまつわるお言葉も沢山残されています。

もっとも問題なのは何か、それは「核(あるいは化学兵器)そのものではなく、それを使う人間の心魂の問題」なのであって、世界情勢もぐっと縮小すれば近所隣との問題であり、人間そのものの問題です。こうした問題の基にあるのは「自分(自国)さえ良ければ」の心であり、それは皆の幸せを願う神へと向かう心が錆びついてしまっているからと言えます。

 

 

▼自分という道具を磨く

 

食事を作る時の代表的な道具が包丁であり、包丁は手入れをしなければすぐに錆びて切れ味が悪くなってしまいます。

実は私たち人間も1人1人が「地上天国を作る」という神の道具であり、各人を道具に例えると、ある人は包丁の役であったりまな板の役だったり、ノコギリの役や砥石の役であったりするのです。包丁にノコギリの役目が出来ないのと同様に、誰もが他人には出来ないその人なりの役目を課せられています。

 

人間という道具も磨くことを忘れておればだんだん錆びついてしまい、そのままではより善い人生を歩むことは出来なくなってしまいます。

自分を磨くことは緊急ではないけど大事なことであり、そのために時間をかけエネルギーを注ぐ必要があるのです。ところがほとんどの人は「早く結果を出したい」「早く問題を解決したい」と焦るあまり、自分の能力を磨くことを後回しにしてしまいます。

 

では、どうすれば自分を磨くことが出来るのかというと特別なことは何一つなく、その材料は仕事など日々の生活の中にあふれているのです。

人間という道具を大まかに分けると「心と体、知性と人間関係」という4つの要素で成り立っており、これらが絡み合って様々な人格を生み出しているわけです。

 

最初に「知性を磨く」とは知識を増やしたり、色々なことを経験したりして“自分で考える力をつける”ということです。学校を卒業して社会に出てしまうと勉強する機会や時間は大幅に減ってしまいます。だから本を読んだり、「人の振り見て我が振り直せ」の諺のように自分を振り返ったり、自分の考えや体験を文章にしたりというような習慣を身に着けることも大切です。

博覧強記(注1)であられた明主様は身近で奉仕されていたスタッフが失敗するたびに「御神書を読んでいるか」と問われたそうです。御神書の中に答えがあるからです。

 

明主様ご自身、晩年の忙しかった時でもラジオは勿論(当時テレビはなかった)の事、新聞も十数種、その他の本を読まれていたと伺っており、「知識欲は人間の持つ天来の美徳だ(注2)」と考えておられたようです。

それは世の中にある考え方は本当のこともあるけど間違っていることもあるわけで、ネットが発達した現在、そうしたことが顕著になってきています。真偽を見分けるためにも知性を磨くこと、具体的には御神書を拝読することは大事なことであり、また自分の考え方を他人目線で見るというように物事を客観的に見れるようになることも大事だからです。

 

次に「人間関係を磨く」とは“周りの人と上手に付き合えるようになる”ということです。このことは自身がよい感情を保てることと密接につながっており、例えば相手に好意を抱くのも、トラブルになるのも相手がおればこその話であり、感情はいつも人との関係の中で生まれたり動いたりしています。もっと言えば、悩み一つ取り上げても「宇宙はどうなっているのだろうか」「地球環境問題はどうなのか」など壮大なスケールで悩む人もいるかもしれませんが、ほとんどの人は自分と自分の周りの事柄で悩むわけです。

 

そこで明主様は人間関係の基本的な在り方に“自分の事だけではなく相手の事も慮ってみる”というように「人の良かれ」を説いておられます。これもより良き感情を保つため、あるいは人間関係を磨くことにつながるわけで、御教え頂いたことや普段の生活の中で教えていただいたこと、学んだことをやってみることです。

 

(注1) 広く物事を見知り、よく覚えていること。

(注2) 「景仰」メシヤニカゼネラル

 

 

▼体と心を磨く

 

ところで人間を構成する4つの要素の中で最も基礎となるのが体であり、私たちがこの世で役目を果たすためには絶対に欠かすことが出来ないものです。体を磨けば(体がきれいになれば)頭の働きもよくなり、それは心や知性、人間関係にも良い影響を与えます。

 

また心を磨けば(心を浄めれば)体や知性、人間関係を磨くことにも繋がるわけで体と心は切っても切れない関係にあります。

ところがその体は放っておけば体内にはゴミが溜まりに溜まり、汚れてしまいます。そこで体を磨くこと(体を掃除すること)が大事になるわけですが、それは自然がやってくれるわけで、それが病気をはじめとした浄化作用です。

原因があればこその浄化ですが、最も大きな原因とは病気を悪意にとらえ、クスリなどによって血を濁した結果(霊も曇る)であり、もう1つは人の道や神様の律法(自然の法則)に背いて霊を曇らせたからです。平たく言えば不幸とは浄化作用を悪意に取ったが故の結果なのです。

 

おのもおのも (まこと)(ごころ)(たち)(かえ)り   (かみ)(ひかり)(たま)()らせかし

 

とありますように、出来るだけ体内に異物を入れないというように、血を濁さない生き方(想念を曇らせない生き方)を心がけるとともに、浄霊を教えていただいた身であるならば、浄霊を受けることも大事なことです。

 元気は元気でありがたいことですが、浄化中は苦しくとも「それも霊体共に磨かれる(きれいに)為の前段階」であって、どっちに転んでも悪い事などありません。

 

 

▼頭も体も使え

 

年齢を重ねてもやるべきことがある、打ち込めることがあるというのは人を元気にさせる源です。よく耳にするのは、それまでやっていたこと(家事・仕事など)を「大変だから」などとして取り上げられ、やる事がないという状況に追い込まれると人の心はおかしくなり、認知症(あるいは老人性のうつ)に進む例も多いようです。そんなことを考えると、どこまでいっても体が動く間は何らかの形で体を使うこと、頭も使うことは大事な事であって、明主様は長生きのコツについて、

 

頭を使わないと早死にする。だから頭を使ったほうがいいですよ。・・・要するに頭を使えばよい。私は頭を使うのがおもしろくてしかたがないんです。だからいろんな原稿を書くんです。これはふつう考えられているのと反対です。というのはね、神が人間に与えた機能というものは使うほどよくなるんです。だから頭だって使うほどよくなるんですよ。しかし心配は別です。野蛮人だって心配するんだから、むしろ野蛮人のほうが文化民族より心配が多いでしょう。それから、心配するというのはたいてい自分が間違ったことをしているから心配するんです。もし間違ったことをしていなければ心配する必要はないはずです。私もいろんな情報が入ってきても、別に悪いことをしてないから心配なんかしないのです。だから肝腎なことは人間嘘をつかないことですね。(『御光話録』5号 昭和24年ご発表)

 

と仰せられているように、私たちは年齢を重ねても仕事を含めて、自分のやるべきことをやる、頭も体も使えということです。

 

 

▼天命を生きる

 

明主様は今日の人間のありようについて、「膿の固まりが理屈を言っている」と仰せられていますが、これは事実であって現代人は心身ともに汚れて(錆びきって)います。心身ともに錆びているから「これが人のすることか」というようなことをやってみたり、理不尽としか思えないようなことに巻き込まれてしまうわけです。

 

そこで、その汚れを除去して、きれいな立派なものにするのが「浄霊」であり、体内を流れている血液の不純分子を取り除くことによって清浄化され、真の健康体となるとともに考え方や行動も正常となり、はじめて心身とも健康な人間が誕生するのです。

本日は敬老を迎えられた皆様をお迎えしての集いですが、会員さん方を見ていて思うことは、「年齢を重ねても元気で明るい人が多いなと」いうことです。長生きできることはありがたいことですが、何があっても最終的に感謝に振り向けられる日々であればもっとありがたいことです。

 

人生は想定外の連続であり、いつ何時、自分の身に何が降りかかってくるか分からず、時に失うものもあるでしょう。しかし一方では必ず何かを得ています。何があっても明主様を信じ、前に向かって進んでこそ人は成長していくのではないでしょうか。

そこで、より良き人生を歩むために忘れてはならないのが、

 

(ゆか)しけれ (わが)()(こと)をあとにして   (ひと)のよかれと(ねが)(こころ)

 

とありますように、「人のよかれ」の心であり、そのためには知恵を働かすことも必要になります。なお「人のよかれ」は人の事も慮ることであって“自分はどうでもいい”という意味ではありません。結局、「人のよかれ」は「自分もよかれ」に繋がっていくのです。縁あってこの世に生を受けることになった私たち、それは運命と因果の法の中で織りなす人生ですが、人生の目的は自分自身の魂を磨くことではないでしょうか。

 

人の幸不幸や運命を支配するものが各人に宿る霊魂、だから常に心(霊)を浄めることを忘れてはならず、その基盤としての浄霊であり明主様に教えていただいた事の実行です。