九分九厘と一厘(2022年8月7日講話)

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今年も早、亡くなった人を偲ぶ月が巡ってきました。本日は感謝の集いに引き続いて物故者慰霊祭を執り行います。年齢を重ねる程、死は身近になってくるものですが、若いからと言って大丈夫とは限りません。「若くても年老いても死ぬ時は死ぬ。それは1秒後かもしれないし30年後かもしれないが必ず死ぬ。でもいつ死ぬのかは、それは誰にも分からない。」というのが死というものです。

 

「人間、死ねば終り」と考える人も多い中、そう思って生きるのか、それとも霊界の存在を信じ「死んでも終わりではない」と思って生きるのかでは全然違う人生となってしまいます。「死ねば終り」と考えるから、「今さえよければ、自分さえよければ」となってしまいます。しかし「永遠の今を生きている」と思えればこそ、たとえ苦しいことがあっても前に進めるし、充実した人生を生きられるのではないでしょうか。

 

また色んなことがあるたびに、亡き人に「もう一度逢いたい」「あの頃に戻りたい」と思うこともあるでしょう。そんな人の心を察してか、「亡き人はいつでもあなたのそばにいるよ」として詠まれたのが、

 

たとへ()は (やま)(かわ)(せん)()へだつとも   (たま)(あさ)(ゆう)(きみ)がりにそふ

 

というお歌です。お盆の月である今月は、こうしたことを踏まえて「九分九厘と一厘」というテーマでお話しします。

 

 

▼この世を動かす霊界

 

参院選挙期間中の7月初め、安倍元総理が凶弾に倒れるという衝撃的な事件が起こりました。事件を報ずるテレビにくぎ付けになりましたが、大和西大寺駅前で応援演説中、警備のスキを突くかのように背後から男に銃撃されたのです。

事件の真相が分かるにつれ、政治的な意図はなく、「家庭を崩壊させたある宗教に対する強い恨みによる犯行」と報道されました。

現代社会の問題の根には宗教心(見えないものに心を寄せる働き)の欠如があるわけですが、くだんの宗教がこの度の事件の引き金だったとしたら由々しき問題であり、宗教全般に対するイメージはより悪化するばかりです。

生前、安倍氏本人は後輩議員らに「命を狙われてこそ、本物の政治家だ(注1)」と語っていたと言いますが、善悪あるいは功罪あわせもつのが人間です。特に権力を持ち国政に影響力を与える政治家など、思想信条の違いやどんな行動をしているかによって命を狙われることもあるわけです。

 

どうしてこうなるのかを信仰的な側面から言いますと、それは「この世の出来事はすべて霊作用である」ということです。例えば物事に接して賛同することもあれば「あれはまちがっている」「こうすべき、ああすべき」というような事もあります。そうした批判はあって当たり前なのですが、それが「あいつは許さない」「死ね」「殺したる」という恨みに転化すれば各人の霊魂を曇らせてしまいます。人を呪ったり、恨んだからと言って、すぐに何かが起こるとは言えませんが、「人を呪わば穴二つ」というように、そうした思いは必ずと言ってよいほど人を不幸に陥れるものです。

また私たちの心が活動する霊界(想念の世界)とは不思議な世界であり、

 

「鰯の頭も信心から」と言いますが、くだらない石ころでもなんでも一生懸命拝むとそこへ神仏ができるものです。拝む人間の想念でできるのです。そして人々が拝んでいる間は神仏の姿は出てますが、拝まなくなると間もなく消えてしまうのです。そういうのでもある程度の御利益があるので信仰する人もあるんです。その反対に想念によって悪魔もできるんです。例えば人を苦しめたりするとその人の怨みの想念が集まって悪魔を作ることがあり、その悪魔のために始終恐怖に襲われたりするんです。浜口内閣のときの大蔵大臣だった井上準之助という人は暗殺されたんですが、これは当時緊縮政策をやったので人々から怨まれたためやられたんです。人の怨みが集って悪霊となり、それが人間に憑き、その人間を操って復讐することもあります。(御光話録4号 昭和24年2月18日)

 

とあります。真の原因など分かりませんが、上記のお言葉にありますように今回の事件の背景として、強い恨みをいだいていた犯人を後押しするかのように、多くの人々のマイナスの想念が加担していたということが考えられます。犯人個人の問題だけではないということです。考えてみれば恐ろしい話ですが、善きにせよ悪しきにせよ各人が発する想念や言葉は世の中に響いていくのであり、その反映としての現代世相です。

 

より善き世界を望むのであれば、それに相応しい天国の心たる感謝の言葉(心)とともに他を思いやることを、まずは自分から発していくことであり、そうした人々が増えただけ世の中はより善くなっていくのです。

この度の事件もその1つですが、「21世紀は心の時代」などと言っていたように、各人の心(霊)にあるものがどんどん出てくる時代、それをごまかしようがない時代に入ったという事ではないでしょうか。

 

 

▼九分九厘と一厘

 

長い人類史の中で「神は各人に宿る善の心を通してより善き世界を、邪神(悪魔)は悪の心を通して悪の世界を作ろうとしてきた」と御教え頂いています。ところで邪神の計画や行動といっても戦争やこの度の暴力のような荒っぽい事だけではなく、あらゆる分野に及んでいるわけです。その中で最も成功したのが唯物科学であり、例えば今やスマホのない生活、ネットのない社会なんて考えられないというように、科学によって素晴らしい文化がもたらされました。

 

今後も科学の発達を願うし、それによって生まれたものを有用(善用)に活用すればよいのです。しかし唯物科学の発達は神や霊など、見えない存在から目をそらせることにもなりました。唯物科学の本質について明主様は

 

科学を利用して人類を信用させ、最終的に人類を支配するためには人間を弱らせることにあった。(「九分九厘と一厘」昭和27年1月9日)

 

と喝破されており、その意味から進歩してきたのが現代医学であり、機械やクスリなどの発達でいかにも病気は治りそうに見えます。確かに医療関係者は病気を解決するために善意で取り組んでいますが、現実は治りそうで治らない否、治さない方法なのです。

ところで「九分九厘」という言葉がありますが、その意は「ほぼ完ぺき、ほぼ間違いない」ということであり、逆に言えば「ホンの僅か、何かが足りない」という意味でもあります。

 

例えば完全犯罪と目されることであっても、事実は思いがけないところから暴露されていくもので、これを昔から「天網恢恢疎にして漏らさず」といいました。ホンの僅か、何かが抜けていたわけです。お金がなければ借りたらいいし、犯罪者は捕まえて罰すればよいと考えるのも何かが抜けています。また病気になって熱が出たらクスリによって熱を下げたらよい、痛みがあればクスリで取ったらよいと考えるのも同じです。その結果は一時はうまくいったように見えてもいずれ必ず失敗します。これらの問題は人間の中身たる肝心要の心(魂)の事が抜け落ちているからであって、まさに九分九厘と一厘の違い差なのです。

それは夜の世界の間は「悪を抑える光」が足りなかったがためであり、

 

悪を働いても解らずに、出世したり、立派になったり、金儲けしていても人に知れなかったのである。(観音講座5 昭和10年8月25日)

 

善行をしても結果が現れないどころか誤魔化したりウソをついたり、人の善意を利用するような人間が成功する姿を見て“正直者が馬鹿を見る”などと言い、成功するには悪の方が早いというのが処世の常識とさえなってしまいました。

しかし悪によって一時は成功したように見えてもいずれは失敗したのも歴史の示すところで、人類史とは「悪による成功と悪による失敗との交互連続の記録」でしかありません。

悪によって九分九厘まで成功した現代社会ですが、これからの世界について、大本教のお筆先に

 

 「今度の仕組みは九分九厘と一厘の闘いであるぞよ」

 

とありますように、神は十全、悪は九分九厘までであって、神はたった一厘の違いで世の中を変えていかれるのです。神の光が強くなった現在、邪神たちは最後のあがきを繰り広げるのであって、今後も忌まわしいこと、衝撃的なことが増えてくると思われます。

 

 

▼あらゆる事象の元には霊がある

 

人間の意のままになるように見えてならないというこの世界、それは人間には変えようがない神の律法によって動かされている世界だからです。その1つが「見えないものが見えるものを動かしている。(霊も見えない、霊界も見えない、心も見えない、エネルギーも見えないが、そうしたものが人間を、あるいは様々な出来事や現象を動かしている)」ということであり、これを「霊主体従の法則」といいます。

 

というように宇宙間のありとあらゆるものはこの法則に従い、寸分の狂いもなく運営されているわけです。これが永遠不滅の真理であって人間もこの法則の下にあるわけで、この法則を基とし実行してゆけば、人と人が相争うということはなくなり、幸福な世界になるのでありますが、

 

(ひと)として ()むべき(みち)(つと)むべき   (こと)としあるなりゆめな(くる)ひそ

 

とありますように、人間はこの法則を無視してきたがために天災地変、ひいては人災という形になって現われてきているのです。要するに自分で原因を作り自身で結果を生んでおきながらも、「他人(あるいは社会)が原因を作り、その結果が自分にはねかえってきている」というとんでもない錯覚におちいってしまっているのです。

あらゆる争いはこうしたところから生まれてくるのであって、それは病気も同じです。改めて病気とは、

 

病気とは体内浄化作用であり、それに伴う苦痛をいうのであるが、これを逆の意味に解し、浄化停止をもって治病の方法としたのが医学の考え方であった。そうしてこの停止手段としては、身体を弱らすに限るから、薬と称する毒を用いたのである。従って毒の強い程よく効く訳で、近来医学の進歩によって、死の一歩手前にまで毒を強める事に成功したので、決して治病の進歩ではない事を知らねばならない。(中略)

 近頃は前記のごとく生命を保ちつつ、浄化を圧(おさ)える事が出来るようになった。というのは前記のごとく強い薬が使えるようになったからで、ある期間寿命を延ばせるのである。しかし無論全治ではないから、時が経てば復(ふたた)び発病する。このようにして人間は漸次弱って来たのである。ゆえに医学の進歩とは治病の進歩ではなく、一時的苦痛緩和と若干(じゃっかん)生命延長の進歩である。(「健康の自由主義」 未発表 昭和28年)

 

今日のあらゆる不幸は病気に端を発したものであり、クスリによって血を濁し心(霊)を曇らせた結果、邪神に操られ、その現れとして忌まわしい世の中となってしまいました。

そこでこの各人の霊の曇りを解消する力としての浄霊であり、それは腕力とか暴力というような物質的な力ではなく、「無限の力」をいいます。現代はあまりにも体主霊従(目に見えるものだけで考え結論を出す)になりすぎているのであり、これを霊主体従の方向に改善させるには、この無限の力である「浄霊力」をおいて、他には絶対にないと思っています。

 

 

▼終りに

 

霊界とのかかわりの中で生きている人間、その関係はすでに亡くなった人との関係についても同じです。今月はお盆(盂蘭盆会)の月、先祖さんや亡くなった人の霊を祭る行事が行われます。お盆のやり方は地方によっても違いますが、いずれにせよ、お盆を心待ちにしている霊もあると聞いていますから真心を込めて供養すべきだと思います。

 

亡くなった人を救うための供養は大事なことですが、それは先祖供養だけとは限りません。私たちは両親をはじめとしておじいちゃん、おばあちゃん、あるいは先祖さんあっての今です。今、この世を生きている私たちは、実は何百人か何千人かは分かりませんが、多数の先祖さんが集約されて1つになった存在であり、言葉を変えたら先祖さんを自らの内にギューッと詰め込んだのが自分自身ということになります。

 

そこで明主様のお力(浄霊)により私なら私がお光を頂きますと、霊線を通して先祖の各々も光を頂き救われていくということであり、また子どもや孫というように新たに結ばれる縁にも自身がきれいにしていただいただけは善き影響(徳)を与えることになります。

 

いつもお伝えしていますように、より良き世の中の礎は1人ひとりが健康になることであり、より善き想念を発していくことです。戦争など地獄的なことが頻発する世界ですが、そうであっても1人が健康に(幸せに)なっただけは天国世界が近づいてくるのです。 

それは一朝一夕にはなりませんが、そんな人を増やしていくのが私たち会員の仕事であり、

 

(まこと)なき (ひと)(まこと)のある(ひと)   けじめつく()(おわ)りなりけり

 

とあります。

宗教をめぐる環境は厳しいものがありますが、だからこそ「浄霊を教えてあげたい」という思いを持ち続け、機会ある毎に分かってもらえようがもらえまいが「浄霊がある」ことを伝えていくことです。