神様からの戴きもの(2022年11月6日講話)

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(あき)はよし()くれば(ひと)(しお)よろしかり  ()()()(いろ)はうつろひはやく

 

各地から紅葉の便りが届く今日この頃ですが、気温が下がってくると美味しくなるのが食べ物です。おいしい食べ物は幸せな気分にしてくれますが、これも元気でおればこその話であり、人間をはじめとして万物は大自然の恵みの中で生かされています。

そのお蔭で今があるわけで、もっと言えば私たちに与えられているものは、みんな神様から戴いた(許された)ものです。家族にせよ周りの人たちにせよ、仕事や財産もそうです。人だって神様がよこしてくださるし、自分も神様が使ってくださっている。だけど、そう思っていないから何事も当たり前の様に感じてしまいます。

 

浄化も同じであって、例えば風邪を引こうと思って寒い日に薄着で外に居たって引かないときには引きません。毒素があって溶けなければならない状態なら風邪を引きますが、そうでないなら「ただ寒かった」だけで終わりです。

 

毒素がある程度溜まってくると、人体内に宿る大自然の力によって風邪を引こうと思っていなくても風邪を引くのであり、大自然からの戴きものならば「ありがとうございます」なのですが、それに反抗するから不幸になるのです。私たちは「大自然の力の源を神様のお力」と受け取っていますが、そう思えば病気も神様からのお恵みであり神様が病気すなわち浄化をお許しくださっているわけです。

「病気にならないように守ってくださるのが神様」と思う人もいるでしょうが、「体内を汚す」というように原因があれば結果が出るということです。

いろんな事が起こる人生ですが、すべては神様からのいただきもの、こうしたことを踏まえて本日は「神様からの戴きもの」というテーマでお話します。

 

 

▼化学物質まみれの食べ物

 

 この度のウクライナ危機から分かるように、食べ物を生産する農業は「化学肥料なしには成り立たない」という現実があります。使用すれば大地を汚し、病気が生まれ、害虫が発生するのですが、それを防ぐため、またクスリ(殺虫・殺菌剤)が使われます。魚の養殖や畜産の多くにもホルモン剤や抗生剤が使われ、ハムやソーセージなどの加工食品、インスタント食品など店頭に並ぶ食べ物の多くは防腐剤や発色剤などの食品添加物が使われています。こうした添加物の効果で食品のレパートリーは広がり、輸送も容易となりました。

というように今日、多くの食品はクスリまみれと言っても過言ではないでしょう。

 

 しかも、これらは石油から合成された化学物質であり、もともと自然界にはないものです。自然界になかったものだから、それを大地も人体も処理できないために環境汚染とか健康問題を引き起こしてしまうわけです。

 

ところで原初の生命は30数億年といわれるはるかな昔、大海原に誕生したと言われています。

海の中に生まれた生命から様々な段階を経て脊椎動物(サカナ)が生まれ、それが淡水に進出し、さらに陸上に進出したのが約億年前の出来事です。

海から陸へという上陸劇を演じたのは大気中で呼吸する肺を持った魚たちであり、しかも彼らの骨はそれまでの魚類(サメやエイの先祖さん)に比して固い(骨が丈夫になった)魚たちでした。この進化の極にいるのが私たち人間なのです。

少し難しい話になりますが、私たちの骨は「リン酸カルシウムと」いう成分で出来ています。

このリンこそはまるでセメントのように骨を丈夫にする成分であり、塩や鉄分などと同様に私たちが生きるためには必須のミネラル分です。

 

しかしリンは有り過ぎたら毒となり老化を促進させる厄介なものでもあり、そこで過剰なリンを排出する機能が腎臓なのです。リンはお米や野菜、肉や魚などほとんどの食べ物に含まれていますが、自然界に存在するリン(有機リン)のほとんどはおしっこと共に排出されてしまいます。

 

ここで問題となるのは前述した加工食品などに使われるリン(無機リンという)をはじめとした食品添加物であって、これらは化学物質ですから腎臓で処理できないどころか、加齢と共に低下していく腎臓の働きをより悪化させてしまうのです。

なお腎臓はおしっこを作るだけの臓器ではなく、今では全身(全臓器)の管理を担う重要な臓器であることが分かっています。ということは腎臓の働きが悪化すると、体の働きもおかしくなってしまう(色々な病気が起こってくる)のです。

 

 

▼物事は小さい事の積み重ね

 

「ちりも積もれば山となる」とは言い古された言葉ですが、この言葉は多くの警鐘を含んでいます。先ほどの食品添加物にしても、少々添加物が入ったものを食べたからといってすぐには何事も起こりません。

 

また「感謝は感謝を生み、不平は不平を呼ぶ」というように人間は想念次第と言いますが、感謝したからと言って物事が急に変わるわけでもなく、愚痴や不満を言ったところで突然、何かが起こるわけでもありません。

善き行いをしたからといってすぐ結果が出るとは限らず、反対に「自分さえよければ」の心で得することもあるのですから、「人のことなど知ったことではない」という人も出てくるわけです。

 

しかし食品添加物だらけのものを食べている人と、出来るだけ避ける心がけをしている人とはやっぱり違います。「1つひとつは大したことはない」から無頓着になってしまうのですが、「普段どんな食べ物を食しているかは健康に直結する問題」でもあります。

だから色がケバケバしいなど見るからに「食品添加物が多そうなものは買わない」「ハムやソーセージなどの加工食品は減らす」「値段が安すぎるのも要注意」「せめて調味料は真っ当なものを使う」というように、自分の食生活を顧みてカットできるところからやっていくだけでもずいぶん違ってきます。

 

異物(毒素)を体内に入れるのは簡単ですが、それが出る(浄化)となったら苦痛を伴い、時に命にかかわるときだってあります。

また想念にしたって、いつも文句や愚痴ばかり言っている幸せそうな人に出会ったことはないし、やはり常々感謝する人のところにしか幸せは寄っては行かないようです。

 

もっと言えば、胡散臭い人は胡散臭いことばかりをやっているし、信用されないような人は信用を落とすようなことばかりをやっているものです。これも1回の量としては極わずかなものでも「ちりも積もれば山となる」のように度重なって一定の量に達すると、それを掃除する働きが生まれてくるわけで、これが様々な浄化作用です。

 

 

▼浄化が長引くとき

 

 前述したように浄化も神様からの戴きものであり、どんなことでもありがたく受け止められるようになったら地獄はないわけです。

ところが傍から見ると「そんなに恵まれていながら、どうして、そんな不平を言わなければならないの」と思う位、いつも不平を言う人がいます。

 

感謝することを知らずに不平ばかりを言うから、不平を言わなければならないような事が生まれてきて、だんだんと地獄世界に堕ちていってしまうわけです。

しかし会員さんを見ていて思うことは「色々なことを体験されて浄化の意味が分かっただけは、いつしか感謝に振り向けられておられる」ということです。

 

例えばこの度のコロナ騒動で仕事が減り、これからの生活に不安を抱えていた会員さんがいました。それが思いもしなかった子供の転勤により「生活は思ったほど苦しくはならず、反対に仕事が減った分だけ体は楽。コロナがなければきっと無理を重ねていただろうから、これもご守護だ。」と話されています。

しかし感謝に思える範囲は人それぞれ違うもので、「これ位までのことはあり難いと思うけど、もうこうなると我慢できない。浄化とは思えない」となる人もいます。

 

浄化していないときは、「そうだな」と思えることでも、イザ自分が何ヶ月も浄化が続けば浄化でないような気がしてくるのです。浄化も人それぞれでいっぺんにはいかない事もあります。

時の流れに委ねるしかないことも多いもので、そのような場合は長引くということがお蔭なのです。

 

それは一遍に浄化したら体がもたないから、あるいは一遍に問題が起こってくると精神的に耐えられないから御守護によって長引いているときもあります。もしかしたら自分の想念が間違っているから、それを正すために長引かせてある場合もあるわけで、そんな時にはスタッフに尋ねてみることです。

 

 浄霊をいただいて浄められ、御論文を拝読して魂が高くなってくると今まで分からなかったことが分かるようになってきます。その時は分からずとも必ず、「なるほど、そういうことか」とうなずけるようになるもので、つまり霊界における自分の霊魂の位置を向上させれば、霊的にも体的にもいろいろなことが分るようになるものです。

 

 

▼身魂相応のことしか起こらない

 

 私自身、「御任せする」の御論文を今までにどれだけ拝読したか分からないくらいですが、

「執着を捨てて、お任せするほど楽な生き方はない」

と分かってはいても、実際問題になるとそう容易いものではありません。「どうにもならない」と分かっていても、「何とかならないものか」と思い悩むのが私たちの姿でしょう。そんな場合、執着の想念が邪魔となって御守護をいただけないようにしてしまいます。

 また「どうにもならない」と思い悩むことは曇ることであり、自力(人力)で何とかしようと力むから神様から流れてくるもの(神の知恵)が弱くなる、御守護が薄くなるのです。これを電気に例えれば、電気の流れ(電流)は抵抗が大きいほど弱くなるのと一緒で、御守護の抵抗力こそは自身の執着なのです。

 

 そういう私自身、今でも気になることは多いものですが、しかし単なる心配ではなく「考えるだけは考えてみる」というものに変わってきたように思います。

その上でやれることはやってみますが、これ以上はどうにもならないと思うとき、後は「明主様どうぞよろしくお願いします」です。そうすることで一番よいように御守護下さると思えるようになりました。

 

なお、お任せするといっても、努力もせずに「神頼み」ではダメです。努力はするけど、お任せする度合いが強くなる(多くなる)ということで、そうなるほど御守護もいただけるように思います。

 

なお、あらゆる物事は霊主体従であり、また自分の身魂相応のことしか起きてきません。

だから身魂相応のことしか考え及ばないし、やることも相応のことしか出来ないということです。「どうにもならない」と思う時ほど浄霊を受ける、クヨクヨ思うときほど浄霊を受けるということが肝心です。

 

(ただ)(かみ)の ()(むね)(まか)(すす)むこそ   (かしこ)(ひと)のしるしなりける

 

とありますが、明主様はその人にとって最も良い状態にご守護下さっているのですから、後はより善く生きるコツともいえる「お任せ」ということも大切なことです。

 

 

▼浄霊を取り次ぐことも徳を積むこと

 

何事があったとき、「何とかしなければ」「どうなっていくんだろうか」と思い悩むだけでは地獄です。

私たち会員からみれば何でもないようなことでも、騒いだり悩んだりしている世の中ですが、そのようにならずに済むというのは浄霊があればの話であって、今さらながら浄霊を教えていただいたことの有り難さを思います。

 

病気だけではなく、あらゆる不幸の根源は「人類が病気治療と称してクスリ(毒物)を使用し、そのために血を濁し霊を曇らせた結果」です。このことが明主様のみ教えの根本ともいえるのであり、その曇りを易く消しうる力としての浄霊です。

そう考えれば浄霊を取り次いであげるということは「あらゆる不幸の因を取り除いてあげる」ということになります。「曇り」というものは救いを求める人の手助けをしたり、よい世の中になる事を心掛けるなど「善徳を積むことによって少しずつ消えていく」ものです。

 

ならば浄霊を受けることも、浄霊を取り次いであげることも、ともに善徳を積むことになります。人を浄霊してあげるというのは、相手の曇りを減らして幸せになるようにしてあげるのですからまさに善徳を積むことに他なりません。

 

(いや)()てに  (ぜん)(じん)(るい)(じょう)(れい)  よりて(すく)はん(とき)()たるる

 

とありますが、今は華やかなものや脚光を浴びるものに目が向く世の中ですが、いくら華やかでも事実の裏づけが伴わなければ何にもなりません。現在の社会情勢から思うに浄霊でなければどうにもならない日が近づきつつあることを感じます。「浄霊を実践し、浄霊を伝えていく」という私たちの活動は地味なようですが、力は絶対です。

 

最後になりましたが、浄化を含めてどんなことでもありがたく受け止められるようになったら地獄はない、感謝の中に地獄はないという話をしました。

 

話は前後しますが化学肥料なしには成り立たない今日の農業、この度のウクライナ情勢で化学肥料原料の入手が困難になっている現実があります。

こうしたこともあってか昨年、政府は農業を持続可能なものにするために法整備を行い、今年7月から施工されるようになりました。

その中の目標の1つとして「2050年までに有機農業を耕地面積の25パーセント(100万ヘクタール)に拡大する」と掲げています。

 

現在、有機農法を実施している農家はホンの僅か(全体の1%にも満たない)ですが、これも過度の化学肥料・農薬の使用が環境や生物に与える影響を無視できないようになってきているからであり、徐々にではありますが、よき兆しがあることも事実です。(注1)

ましてや明主様の信仰をしていて悪いことが起るはずはないのであって、目先だけで、あるいは自分の都合だけでみるから悪く見えるのです。第三者からみれば不幸にしか見えない事もあるでしょうが、しかし神様を信じられるならば希望と喜びがあるだけです。

 

(注1) 「目指すのは持続可能性」2022.10.27 読売朝刊