御論文「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」←クリックすると御論文ページに飛びます
冬の世は はや過ぎ去りて花笑い 百鳥歌う春は来ぬめり
寒かった冬も終わりを告げ、ようやく春めいてきました。
「1月は住ぬ(いぬ)、2月は逃げる、3月は去る」というように、昔の人は月の名に頭韻を踏み、冬の終わりから春先を流れる時間の速さを言い表してきました。近づく春の足音に耳を澄まし、あるいは何かと行事の多い気ぜわしさに吐息をもらした実感は人それぞれでしょう。
また今頃といえば卒園や卒業など別れの季節でもありますが、別れのあいさつの代表といえば「さようなら」。近年、「永遠の別れ」を意味するとして使わない人も増えていると言いますが、「ありがとう(有り難き事)」などと並ぶ美しい日本語の1つです。
その語源は「左様ならば」、つまり〝そういうことならば〟という意味であり、昔人たちが教えてくれることは、たとえ望まぬ別れであっても、「〝そういうことならば〟と受け入れていく。そうすることで前に進んで行けるんだ」ということなのでしょう。
出会いと別れの季節の今、再び戻らない今という時間を大切にしたいと思うものです。
▼広がる薬物汚染
昨年12月滋賀県守山市で発生した女子高生の死亡事件、男女2人が誘拐犯として逮捕されましたが、捜査の結果、死因は薬物の過剰摂取によるもので、この3人はSNSを通して知り合った仲間であったとのことが分かりました。
今、市販の風邪薬や病院で処方される睡眠薬など身近なクスリを大量に飲み続け依存する人が若い世代を中心に増え続けていると言います。クスリの過剰摂取は「オーバードーズ」とも言われ、時に命にかかわることもあるわけです。2021.11.24~26の読売朝刊にオーバードーズについて書かれていました。
ある女性医師の話
・大学の時、不眠で処方された睡眠薬を飲んだのがきっかけで常用するようになった。
・働き始めてから量が増え朝昼晩と10錠ずつ飲むようになった。
・健忘や過食などの症状が現れ、勤務中に泡を吹いて倒れた。
・休職して入院したが、「どうすれば薬を入手できるか」ということばかりを考えていた。
・自助グループに繋がったことをきっかけに乱用と止めることができた。
ある接客業の男性の話
・大学を中退し仕事を始めてから咳止め薬を乱用しはじめる。
・辛いときに20錠を一気に飲み、時間を空けてまた飲むことを繰り返す。
・頭がさえ、仕事ができたが、そのうちに眠れなくなった。
・回復支援施設に入るまでそのような生活が続いた。
これらは極端な例かもしれませんが薬とはこうしたものであって、痛みにせよ何にせよ薬を使いだすと、もう我慢できなくなってしまいます。
何故、薬にはまってしまうのかというと、「薬とはすべて麻薬」だからです。
覚せい剤や大麻などの麻薬は即効性があり、そうでない一般的な薬はゆっくり効いてくるかの違い差であって、ともに麻薬だからこそ中毒性があり、使うにしたがってだんだん効かなくなってくるのです。このことについて明主様は、
今日世人は麻薬というと、非常に恐ろしいもののように思っているが、実は薬と名の付くものは、全部麻薬である事の意味をかいてみるが、これは誰も知るごとく初め麻薬を用いるや、頭脳は明晰となり、爽快感が起るので、段々癖になってしまうので、これが中毒である。
ところが実はあらゆる薬も同様であって、ただ麻薬と違うところは、麻薬は即座に効き目があるが、外の薬はそうはゆかないで、言わば長持がするただそれだけの異(ちが)いさである。風邪でも結核でも、胃病、心臓病、何でもかでも理屈は二つである。
従って現代人のほとんどは、軽微な麻薬中毒に罹っているといってもいいくらいであるから、病気に罹り易いのである。
そうして面白い事には、近頃よくこういう話を聞く、それはアノ薬は以前は非常によく効いたが、この頃効かなくなって困ってしまうというのである。これは全く薬の中毒患者が増えたためであるが、それに気が付かないだけの事である。
でなければまさか人の方が以前と異なる体になった訳ではあるまいから、全く医学の盲点を物語っているといってよかろう。
(「薬と名の付くものは全部麻薬なり」 昭和27年9月17日)
とおっしゃっています。
▼邪神の壮大なる計画
この度の新型コロナ騒動からも分かるように、ワクチンやコロナ治療薬に見るように今や人間をクスリ漬けにしようとする試みが激しくなってきています。ワクチンなど一部の国では有無を言わさぬために義務化している国すらあります。これは過去の人類史にはなかったことであり、クスリの持つ毒性などを考えるとき、末恐ろしくなります。そこで「何故だろう?」と考えるとき、それは製薬業界や医療業界などの思惑もあるのでしょうが、実はその奥があるのです。
私たちが生きるこの世界を霊的に見れば主の大神の下で善を司る正神界のエネルギーと悪を司る邪神界のエネルギーという強大なエネルギーが相対しています。
それは霊線を通して各人にもつながっており、何か事に接して正神は善を勧める心であり、邪神とは悪を勧める心です。
このぶつかり合いが各人の心の中で絶えず繰り広げられる善悪の戦い(葛藤)であり、この現実化としての個人と個人、組織と組織、国と国との争いになっていくのです。というように目には見えずとも、この世においては絶えず正神と邪神が戦い続けており、その現われとしての歴史なのです。
なお邪神の目的は何かというと、端的に言えば人の心を通して悪の世界を作ることであり、人を不幸に陥れることです。しかし、
悪魔は強い光を非常に恐れるからである。悪魔にとって光程恐ろしいものはない。光に遇う時、悪魔はその悪魔力が弱るものである。
(「悪魔の囁き」昭和11年4月19日)
とありますように、邪神が最も恐れるものが神(正神)の光であって、邪神が世界を支配するためには「神に近づけさせまい」「神様を拝ませない」ようにすることなのです。
それは人の心が健全であっては、あるいは体が健康であっては魂の光が発揮されるために人を支配できません。だから、人を支配するためには霊を曇らせ、魂の発する光を遮る必要があり、その最も有効な手段が薬なのです。
そこで彼らがやっていることは本来、人間の生命や健康を保つための働きである病気(浄化作用)を、熱や痛みなどの苦痛を利用して「生命や健康を蝕む恐るべきものである」として吹聴したのでした。
そして薬を用いることによって病気症状を抑え、いかにも病気が治るように見せかけながらもその実は薬によって人体を弱らせ、霊を曇らせてきたのが夜の世界の姿です。
それは病気の人だけを対象とするのではなく、今ではワクチンに見るように元気な人にまで薬を飲ませようとしているのです。
このことに今も多くの人々は気付かず邪神の思うがままに操られ、病気や貧しさや争いの苦悩の中にいるわけです。
なお冒頭のご論文中にある「世の終わり」とは世界の終わりという意味ではありません。
世界はこれかも永遠に発展していくのであり、ただ悪に支配された夜の世界の終わりを意味する言葉なのです。
弥勒の世 見え初むるとも心せよ 曲は隙なく狙ひつめ居り
とありますように昼の世界となった今、邪神にとっては足掻かざるを得ない時代となりました。
だから何かあれば「隙あらば」と切り込んできますので、振り回されぬように気をつけなければなりません。
▼浄霊は薬を抜く方法
人間の運命(幸不幸)はすべて霊界の何処に自らの魂の籍があるかによって決定されます。あらゆる浄化の原因は薬によって霊を曇らせ霊界の籍を下位に落としめたためであって、下位に落ちただけは邪神の支配を受けることになります。そこで邪神とは、
何となれば神様というのは、やっぱり悪いほうを利用するのです。
それで自分の身魂を磨くとか、偉くなるとか、そういう磨きはみんな邪神がやるのです。
邪神がその人を苦しめて、それでその人は磨けるのです。だから邪神というのは善人を作る砥石みたいなものです。
(中略)ただ邪神に負けてはいけないのです。負ければ悪の世になるからか勝たなければならないのです。
ただ今までは邪神のほうが強かったために、かえって神様のほうが一時的でも負けるのです。それで不幸や災いがあるのです。
今度は神様のほうが邪神より勝ってゆけばよいのです。(御垂示録23号 昭和28年8月15日)
というように邪神を使われるのも主の大神であって、邪神とはあらゆる浄化作用を担当している神なのです。
宗教の 教のみにて今の世の 人救はんとするも詮なし
とありますように、人が救われていくには教えだけでは困難です。魂そのものを目覚めさせることが大事であって、今のままでは人類は健康問題で行き詰まり、犯罪の増加に苦しみ、また怯え、不安焦燥に駆られて地獄さながらの世界になってしまいます。
そこでそうした問題を解決する力としての浄霊であり、浄霊によって霊の曇りが解消されるというのは、言葉を変えれば薬が抜けていくということです。そして薬が抜けただけは魂が光だし、邪神の影響を受けなくなっただけ苦悩は減っていくのです。
しかしながら、「あれだけ熱心な人がどうしてあんなことに」というように、熱心に信仰しているにもかかわらずなかなか恵まれない人もあるにはあるものです。人間は過去においてさまざまな罪穢れや薬によって霊を曇らせ(血を濁し)ています。
「人間、一皮むけば膿だらけ」
と仰せられているように、その量はどれだけあるか分かりません。そんな中にあっても善徳を積めば積むほど魂は霊層界の上層に上がっていきますが、魂だけが向上すると霊や肉体と相応しなくなります。こうした時、神の方で急がれる場合には邪神を使って荒っぽく曇りを取られることがあるのです。
このように不幸の根本原因は浄化停止に用いた薬にあるのであって、この邪神の計画に気づかれた明主様は筆に口に病気の原理、健康の原理などを説かれ、そして浄霊の力を以って救おうとされているのです。薬の恐ろしさは私たちの想像以上のものがあり、このことをしっかりわきまえて真理と浄霊を伝えるために出来ることを行動に移していくことです。
なお伝えるといっても相手は生きた人間であり、心の在り方も顔形が異なるように千差万別です。だから人により事により、時によって自在に導かなければなりません。
どうすればいいか、それこそは「どうぞ、分かってもらえますように」という誠心を尽くすしかありません。