御論文「人療法と神療法」
いさぎよく秋を紅葉の燃えさかり
たちまちに入る灰色の冬
季節が巡るのは早いもので、いつしか枯葉が舞い散る頃となりました。今日は今年最後の感謝の集い、今年1年を振り返ってみれば「こんなこともあった」「あんなこともあった」などと各人それぞれでしょう。中でも世界中に大きなインパクトを与えたのは何といってもロシアがウクライナに侵攻したことでしょう。ウクライナの街は破壊され尽くし犠牲者が出ていることは言うまでもありませんが、戦争の影響は生活基盤たる電気やガス、燃料などのエネルギー価格を上昇させ、食糧不安などのリスクは世界的なものとなって広がっています。
また国内においては参院選挙期間中の7月初め、安倍元総理が凶弾に倒れるという衝撃的な事件も起こりました。事件の真相が分かるにつれ、政治的な意図ではなく「家庭を崩壊させたある宗教に対する強い恨みによる犯行」と報道されていますが、神を教え人を救うべき役目を担う宗教がその引き金を引いたのならとんでもない話です。
その他にもいろいろありましたが、言えることは昼の世界の到来とともに「頭がどんどん浄化してくる時代に入った」ということです。その根にあるものを追いかけていくと唯物思想から生まれた「病気は悪しきもの」という考え方にあり、その行き詰まりが来ているのです。本日は令和4年度の締めくくりの話をさせていただきます。
▼昼の世界の浄化
コロナも3年目を迎え感染者数は増加するばかりですが、「罹らないように」と注意していても罹るときには罹るもので、それも自身がより良くなるために必要なことだからです。
コロナ感染後、疲労感や倦怠感、あるいは長引く咳に悩んでいる人も多いようですが、こうした後遺症が起こる原因は今もよく分からないと言います。これを浄霊の視点から考える時、過去に浄化停止を繰り返してきたから、あるいは感染時、熱を下げるなどして毒素の排除を妨げたからということではないでしょうか。
ここで私事を言いますと、今年の春、孫の風邪みたいな浄化を機に私も浄化をいただき、その時は物事は考えられず、目の前は虹色に輝くカーテン状のものに覆われてよく見えない状態で2ヶ月ほど休職させていただきました。おかげで今は楽になりましたが、それよりありがたかったのは昨秋から続いていた背中の激しい痛みが楽になったことです。
今も背中の痛みがないわけではないですが、昨秋に比べれば痛みの内には入りません。
また布団の上で横になって眠れること、寝返りを打てることも当たり前ではないことを痛感した次第です。
これはある会員さんの話ですが、コロナ第7波が押し寄せていた7月、熱が出て頭が痛み風邪のような症状を呈していました。お客様商売でもありますので、念のためにPCR検査を受けたら陰性、しかし言われたことは「夏風邪や熱中症かもしれないが、コロナの疑いもあり外出しないように」と自宅療養を勧められたのです。3日ほど熱が出て喉が痛み、食事もままなりませんでしたが、自分で浄霊を受けていました。数日して支部に連絡があり、「おかげ様で喉の奥が少しゴロゴロするくらいで食べれるようになり、ずいぶん楽になりました」との話でした。これは後日談ですが、この方はもともと頭痛持ちですが、この浄化を機に頭痛が楽になったと喜んでおられます。
改めて浄化について話しますと、「浄化とは不純なもの、宗教的に言えば罪の清浄作用」です。私たちが明主様より頂いた浄霊の力は「きれいなものと汚いもの(あるいは善と悪)を立て分ける力」であり、浄霊を受けることによって、汚いものは体外に排出しますが、人間本来備わっているものは何ひとつ体外へは出ません。化膿すると腐ると医学では言いますが、生きているものが腐るということは絶対にありません。ただ腐るように見えるだけで、浄化後は元通りに否、それ以上に健康になるのをみても良く分かります。
そのように本然の姿、本来神から与えられた健康な状態に心身ともにして下さるのが、浄霊の力なのです。「(病気だけではなく浄化は)苦しみ放しで終わるのではなく、苦しんだだけはよくなる」という、これが浄化であり神の大愛の現れでもあります。
病とは 身魂浄むるものなれば 此上なき神の恵みなりけり
とありますように、このことをしっかり腹に入れておいておくことです。
▼今年を振り返って
いろいろな人の浄化や世の中の出来事を見るにつけ、「これも頭の浄化だな」と思うことが増えてきました。否、そんなことばかりです。頭の浄化は体だけではなく心(精神)にも大きな影響を与えるもので、これからの世の中について、
精神病はこれからだんだん増えます。というのは、霊界が変わってくると霊が浮きやすくなりますから、ちょうど浄化が強くなると固まりが溶けやすくなるのと同じようなもので、霊も落ちついていたものが浮いてくるわけです。(御教え集21号 昭和28年5月15日)
とありますが、これを裏書きするように「うつ」などの心の浄化、そのきっかけは過労や心配事など人それぞれですが増加の一途をたどっています。もっと言えば戦争を引き起こす張本人も、事件を起こす犯人も、一見まともに見えても頭が浄化(頭に血が上がっていない)しているからであり、だからまともな判断が出来ないのです。
何故、頭かというと、現代人は昔人に比べてとても頭を使っています。例えば移動するにせよ「あっちから車が来ないか、こっちは大丈夫か」などと四方八方に気を配らねばならず、ボーっとしていたら事故にもなりかねません。それは仕事だって生活だって同じで相当頭を使っているもので、その上にクスリなどを何の疑念も抱かずに使うのですから、頭を使っただけは首の周りや肩、頭にどんどん毒素が寄っていくからです。
これを浄化するために病気があるのですが、「病気は悪化作用」と考えて妨害することばかりやるわけで、その結果、「何でこんなことをするのだろう。ちょっと考えれば分かることなのに」というように頭が働かない人が増えてくるのです。
浄霊の順序として人間の理性の座であり、また神との接点ともいえる額を浄霊した後、頭を下げさせて脳天を浄霊しますが、それは頭の中心部に毒素が溜まりやすいからです。
どんな浄化も頭が関連しているということであって、患部の浄霊と共に頭や首の周りや肩の浄霊も大事であり、
頭脳内毒素が減少するに伴い、全身的各局部の毒素も排泄さるるのである。(「頭脳の重要性」 昭和22年2月5日)
とありますように、頭が浄化されることによって体も心も浄められるのです。
世間では嫌なことや困ったことが起こると、「誰々がこうしたから、こう言ったからこうなった」などと何かの所為にする人が多い世の中ですが、それは嘘です。外観的にはそう見えるかも知れませんが、霊主体従の大原則がある以上、本当の原因は必ず自分の中にあるものです。「人は自分の鏡と思え」と教えられてきましたが、自分にあるものが映し出されているだけなのです。このことが本当に信じられるようになると人の非を裁くのではなく、己に非のあることを覚らせていただけるのです。そうなると、他の人のすることや言うことが気にもならず、地獄を造るどころか感謝あるのみということになります。そのことの積み重ねがやがて大きな幸福という山を築くのです。
▼終りに
色々なことが起こるたびに「偶然だった」「想定外だった」などという人もいますが、そんなことはありません。いくら科学が発達して人間の望みが叶うようになったといっても、この世には人間にはどうにもならないルールが存在しています。それを昔の人々は「タネを蒔けば芽が出る」ことに例えて、人生を「よいタネを蒔けば良き芽が出る。悪いタネを蒔けば悪い芽が出る」。あるいは「自分が蒔いたタネは自分で刈りとる」などと言いました。
これを「善因善果・悪因悪果の法則(あるいは因果の法)」といい、だから「善いことをしなさい」と説いたわけです。誰もが自分の中にタネを宿しており、どんな芽が出るかは播いてみなければ分かりません。そこで神様は自分で種を播かせて、必ずその結果が得られるようにしてくださったのです。その結果を見て人は一喜一憂するわけで、愚かといえば愚かなのですが、それによって人は進歩もしていくのです。もしこれがなかったとしたら世の中は収拾がつかなくなり、それこそ悪だけが蔓延り善は行われなくなってしまいます。
だけど道徳を説き、「善きことをしなさい」と力んでみても所詮、私たちは肉体を持った人間であり不完全な存在です。理屈では分かっていても感情が納得しないし実感が湧いて来ない人がほとんどでしょう。嫌なこと、腹が立つようなことが起きたということは、「曇っていたからであり、どこかで曇りのタネを知らぬうちに蒔いていた」ということです。
善因善果 悪因悪果のありやかに 知らるる時ぞ世の終りなる
とありますように、これから先、こうしたことがもっともっとハッキリ出て来るのでしょう。なお気づいたことがあるなら明主様にお詫び申し上げて改めればよいし、また分からなくてもお詫びすればお許しいただけるのです。浄化を感謝し、他の人の幸福のために力を尽くし、明主様の御神業のお手伝いという善のタネを蒔かしていただく他ないのです。
そのときは悪くしか見えない事だって、目に見えないところではまったく別の運命が流れています。今だ見えないけれども、それは運命を好転させていく流れであって、しかも後で振り返ればまさにベストタイミング、「あれも必要だったんだ」ということばかりです。
もちろん努力は必要なのですが、このことが本当に信じられるならば、あるいは神様が信じられるならば人は決して不幸にはなりません。
最後になりましたが、今日、仏教界の一部では短期の講習や通信教育で得度させてくれる制度が注目されているようです。背景には人口減や檀家制度が崩壊して経営に苦しむ寺院側の事情もあるようですが、「自分の力だけではどうにもならないことが多い世の中、人生の指標として信仰を必要とする人が増えている(注1)」といいます。こうした人々の願いに応えようとする動きでもありますが、中には半日コース(15万円)で僧籍を与えるケースもあるらしく、「僧侶は人のために尽くす覚悟がいる。短期の教育だけで果たして教典や所作に込められた深い思いに到達できるだろうか」と危惧する僧侶もいます。
ところで会員の皆様方を見ていると、様々な浄化を通して魂が向上され(上等になって)何事かあったとしても最終的には感謝に転化されて行かれています。考え方が天国的になっていくのです。教えや知識を知ることは大事なことではありますが、だからと言ってそれで人生が変わるわけではありません。肝心なことは自らのうちに宿る霊魂が浄められることであり、浄められたからこそ人生や生き方が変わってしまうのです。
その霊魂を直接浄める力としての浄霊ですが、それは自分が有難いだけならば欲でしかありません。そうではなくて「救っていただいたということは、世の中の困った人たちに浄霊を知らせよ」ということでもあります。色々躊躇することもあるけど、「教えてあげよう」という気持ちを忘れていなければチャンスに巡り合えた時、言葉に出せるものです。
「分かる、分からない」は相手の領分であり、大変な世の中となった今、まずは知らせることからです。どうぞ皆様、よいお年をお迎えください。
(注1)「出家せず得度」2022.11.16 読売朝刊